こんにちは。よぎふるです。
最近、職場の人達の会話の中で違和感のある言葉があります。
「普通、~するよね?」
「常識的に考えれば~だよね。」
「~できるのが当たり前だよね。」
自分に言われているわけではないのになんだかもやもやするのです。
何が自分をもやもやさせるのか調べてみたいと思いました。
「普通・常識・当たり前」って?
先に示した会話はごく日常的にされていると思うのですが、私はこれを個人的に言われると結構カチンときます。
カチンとくるということは自分のことを
- 普通ではない
- 常識的に考えていない
- 当たり前にできない
と思っているからかもしれませんが、よくよく考えると
「普通って何?」と疑問がわいてきます。
ふ‐つう【普通】
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は普通以上の出来だ」「普通の勤め人」「朝は六時に起きるのが普通だ」「目つきが普通でない」
出典:デジタル大辞泉
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」 出典:デジタル大辞泉
あたり‐まえ〔‐まへ〕【当(た)り前】 [名・形動]《「当然(とうぜん)」の当て字「当前」を訓読みにして生まれた語》
1 そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま。「怒って当たり前だ」
2 普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり。「ごく当たり前の人間」「当たり前の出来」出典:デジタル大辞泉
それぞれの意味の中にも「あたりまえ」「普通」なんて出てくるのでよくわからなくなってきます・・・。
多くの人が納得できるありさまのことを言うのですかねぇ。
どうやら私は「普通」ではないかもしれない
例えば、私は日頃朝3時に起きるので
例文にあるような
「朝は六時に起きるのが普通だ」
と言われると、私は全くもって普通の人ではなくなります。
他にも
- お肉を食べる事をやめた ⇒ 好き嫌いなくなんでも食べるのが当たり前
- 40代半ばを超えたのにおひとりさまである ⇒ 普通30代までに結婚するよね
- 生活に必要なお金を得るのに働かなきゃならないなんて嫌だなぁ ⇒ 常識的に考えて働かないなんてありえない
- 手先が不器用で要領が悪いので仕事が人より遅い ⇒ 普通みんなできるのになんでできないの
- 目玉焼きにはソースか塩こしょうをかけて食べる ⇒ 普通しょうゆでしょ!
こんな感じなので、
どうやら私は「普通」ではないのかもしれません。
「普通・常識・当たり前」が正解か?
「普通・常識・当たり前」に当てはまる人と当てはまらない人を選別することは日常茶飯事で起こります。
しかし、
- 普通であること
- 常識的であること
- 当たり前であること
が必ずしも正しいかどうかはわからないのです。
自分以外の人間を「普通・常識・当たり前」のフィルターで選別する人達は普通でない人達を「正しくない」と判断しているような気がしてなりません。
自分=多数派=普通の人=常識人=正しい
このような図式が認識としてあるのでしょう。
しかし、声を大にして言いたい・・・。
目玉焼きにしょうゆをかけて食べる人が多数派でしょうけれども、
それが正解とか正しいわけではありません。
目玉焼きにしょうゆ ⇒ 普通・常識的・当たり前
目玉焼きにソース ⇒ 普通でない・非常識・ありえない
なんだかおかしくないですか?
「多数派=普通=正しい」の考え方は危険
目玉焼きにしょうゆをかけて食べることが一般的であってもそれが唯一の「正しいこと」と信じることはないと思います。
しかし、これが目玉焼きでなく他の事柄が対象になってくるとそうでもないのです。
人種・出身地・宗教・趣味嗜好・思想・支持政党・教育・能力 などなど
周囲をよく見てみると
「多数派=普通=正しい」
と考えた結果がトラブルの元になっている場合もあります。
つまり逆から見ると
「少数派=普通ではない=正しくない」
と言っていることと同じになってしまうからです。
こうなると
私のように朝3時に起きる少数派は「正しくない」と判断されてしまいます。
冗談じゃないです。
「普通」は人によって違う
しつこく目玉焼きに何をかけて食べるかということにこだわりますが www、
目玉焼きに「しょうゆが普通」だと思っているのは日本人だけでしょう。
目玉焼きは日本だけでなく世界中でポピュラーな料理です。
今でこそ海外でもしょうゆを簡単に手に入れることができますが、
目玉焼きを食べる外国人が「普通に」しょうゆをかけているとは思えません。
その国、その土地でおなじみの調味料が目玉焼きに使われているのではないでしょうか。
それが彼らの「普通」です。
目玉焼きはその人が一番おいしいと思える調味料を使えばいいのです。
しょうゆが普通と言われて無理にしょうゆにする必要はありません。(そんな人いますかね?)
まとめ 「普通」が存在しないのが「普通」
結局、私たちが考えている「普通・常識・当たり前」の適用範囲は自分が思っているよりも狭いものなのかもしれません。
普通だと思っていたのがお隣の家とは違うし、学校や会社の人とも合わない。
他の県では聞いた事もないし、海外ではありえない。
自分の「普通・常識・当たり前」を他の人に当てはめて「普通か否か」を決めるのは、相手にとってなんのメリットもありませんし、判断された方はいい気分がしません。
普段何気なく会話に登場する
「普通・常識・当たり前」
それはあくまでも話している人の基準であって、あなたや私の価値基準と違ってもいいのです。
むしろ、違うことが「普通・常識・当たり前」なのです。
私の中のもやもやは他人の基準に合わない自分を責めているものだったのかもしれません。
他人基準の「普通」に振り回されるのはもうやめることにしましょう。
どんなに変わったことでも自分の「ある」を尽くしてご機嫌に過ごします。
では、ごきげんよう(^_^)/~
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